墓の香炉

2年ぶりに実家に行く。車で1時間の距離。とても近いが数えるほどしか帰っていない。別に用事もない、というか用事がなくとも行く場所が実家のはずなのに、そろそろ顔を出さなければいけないなぁという変な焦燥感・義務感が実家に向かう原動力となっている。


僕は大学入学時に実家を出たので、出生地に住んでいる期間よりその他の地域に住んでいる期間のほうが長い。だから地元意識とか出生地に対する思い入れも希薄だと思う。高校生なんて移動手段が自転車だから行動範囲も狭いし、周りの文化に目を向ける余裕もないし、勉強しかしなかったから地域との接点もないしで無い尽くし


そんな感じで僕は実家・出生地と薄く浅く繋がっている


実家に帰るとこれから迎え盆の墓参りに行く、というので嫌々ついて行く。両親と一緒に歩くというのは「〇〇さんちの息子」という名札をつけて歩くようなものだから恥ずかしい。40半ばでハーフパンツに赤いTシャツで坊主頭。明らかな社会不適合者の姿を晒したくない。親にも申し訳ない


本家の長男という立場にも関わらず墓に行ったのは20年以上ぶりだった。墓の位置もわからなかった。

何年か前、墓を新しくしたと母親から報告を受けた。300万円。祖先とか宗教とかそういうものに興味がない僕は、石を300万で買ったのかと呆れてしまった。

でも墓地で色んな墓を観察すると、新しいもの古いものが混在していて、やはり新しい墓と比べて古い墓は風化によるみすぼらしさが目立つ。単品で見れば風情があるのだろうが、つるつるとした光り輝く墓石と一緒に並ぶと風情だなんて言ってられなくなる。墓石は新しいほうが良い

墓石に「〇〇家」と入ってしまうとまるで「〇〇家」の格が墓石の新旧・大小で決まってしまうような空気がある。自動車でいえば同じ車種であってもモデルチェンジを繰り返した車は、走る性能に違いはなくても古いモデルの車に貧乏臭さを感じてしまうのと一緒だ。「墓にも人が乗っている」という比喩の下では「〇〇さんちはいつまであの古い墓に乗ってるのかしら」なんてやり取りが死後の世界でも繰り広げられているのかもしれない。あぁ嫌だ

だから「墓に300万なんて馬鹿らしい」と思っていたが、多少は金を掛けないと駄目な種類のものなのかもしれないなと思った。ただこれは田舎の中で生きて行くために必要な見栄であって、僕が墓にお金を掛けることは無いと断言できる。僕は墓になんて入りたくない。自分の一部がいつまでも骨壷に押し込められてジメッとした墓地の地下に保存されるなんて想像しただけで陰鬱な気分になってしまう。


僕は仕事の関係で、生命に関する宗教的な物事に一切の興味や希望を失ってしまった。だからそういう事柄に1円でもお金を使いたくない。神様はいると思ってるよ。宇宙とか世界とか地球とかそういう物が自然発生したとは考えられないから。でもそれと、宗教は別物だ。拝んだり祈ったりしても神様は僕らのことなんて少しも気にかけないし、お金を掛けても神様には近づけない。神様は存在していても宗教は必要ない


ま、それは置いておいて




他人の墓の香炉が目につく。線香立ての上に狛犬が佇んでいる。墓なんて20年ぶりに足を踏み入れるから墓地のあれこれなんて何にも知らないのにその狛犬ばかり気になる。釘付けになった
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狛犬のいる墓も狛犬以外は新しくなっている。だから、わざとこの香炉と狛犬を残しているのだ。風雨で形が崩れはじめていて一見すると不釣り合いなみすぼらしく見えてしまいかねない狛犬をわざと残している。なんて良い佇まいなのだろう。

この狛犬と遊んで暮らせるなら墓地に押し込まれるのも悪くないな、待っていてね


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