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父親を超えた日

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その記憶は団地が入り組む細い道の路肩に止めた軽自動車の後部座席から始まっている。

運転席では母親が体を震わせている。そして時々、嗚咽を漏らしている。その控えめな泣き声は、幼児の僕に聞かせまいとした苦労の末に抑えきれなかった一部なのだろう。

車には母親と僕だけ。逃げ場のない重苦しい空気の中、僕は聞く「お母さん、どうしたの?」

伏し目がちで後ろを振り向いた顔から大粒の涙が流れていた。だがそれよりも母親の顔が歪に見えて僕はとても驚いた。

母親の左眼から頬にかけて顔の輪郭がはっきりしない。本来肌色なはずの皮膚は赤色だったり紫色だったりしていて、そして涙で濡れていてそこだけ母親ではなくなっていた。幼児の僕が認識できる母親は右目から頬まで何か別のグロテスクな塊になっていた。

彼女は僕を連れて寿司屋まで寿司桶を返しに向かっていた。そしてその道中でいたたまれなくなり路肩に車を止め、さめざめと泣いた。その原因は父親の暴力だった。その現場を目にしたわけではないが、それは父親が右拳で母親を殴りつけた結果として出来たものだと僕は分かっている。

こうやって当時の事を書いていると、書き始める前には浮かんでいなかった風景がいくつも蘇る。もう40年近く前のことなのに。その風景が本当の記憶なのか、文章を書きながら脳が捏造しているのか分からないが文章を書きながら幼児に戻っている。あまり思い出したくなく記憶に今囲まれている

母親は頑張って涙をこらえながら「なんでも無いの」と答える。でもそれは、どう強がっても普通ではなかった。幼児の僕はその状況を打開できる方法を何一つ思いつくことも出来ず、後部座席でじっと体を固くして大人しくすることしか出来なかった。

母親は一人の孤独な女として、車で泣いていた

悲しい話だ


父親には姉妹が3人いた。嫁いだ母は、父の母親とその姉妹から壮絶な嫁いびりを受けた。そして味方となるべき配偶者である父もそれに加担していた。それはよくある田舎の嫁いびりだったのかも知れない。叔母は家族ぐるみでうちにたかっていた。食事をたかり風呂をたかる。風呂を灯油で2時間かけて沸かした一番風呂に僕らよりも先に入り湯を汚して帰る生活を続けていた。たかりが目的か苦労させるのが目的か、多分両方だろう

僕も当然、叔母から生まれた従兄弟にいじめを受けた。いじめの司令塔が叔母なのだ。年上の従兄弟たちは学校でも自宅でも僕を見かければ何かしら嫌がらせをしてきた。

父親の暴力はそれからも継続的に続いていたのだと思うが、何故か僕の記憶には残っていない。



僕が14歳、中学2年生の時、2階で勉強していた。日曜日の午後、家の中は静かだった。

突然、母親の悲鳴が階下から聞こえた。僕は状況がよく掴めないまま階段を駆け下りた。そして父親が険悪な目で母親を睨みつけている場面に出くわした。母親は身長が145㎝しかない。父親は母親より30㎝大きい。

僕は彼らの間に割り込む。母親を背にして父親の正面に立つ。あれほど怖かった父親は僕の視線より少しだけ低い。そして父親はその場を去った。僕は父親を超えた


そうやって僕らの力関係が少しずつ変わっていった。イジメの黒幕だった祖母が介護施設に引き取られたり、叔母が癌で消え失せたりして状況は徐々に良くなった。




久しぶりに実家に帰ると冷蔵庫によれた紙が貼ってある。そのよれたチラシの裏に父親の綺麗とは言えない文字が書かれていた

「先日は急に怒って大声を出してしまい申し訳ありませんでした」

父親の反省文だった

母も父を超えたのだ



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