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息抜き

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私は大学で英語の講師をしている。入学したての1年生の担当だ。学生は英語の勉強が目的で入学したのではない。彼らは2年時から専門的知識を学ぶのだが、1年時に「豊かな人間性を育む為」一般教養を学ばせている。哲学、心理学、語学、美術など他学部のさわりに触れさせている。

大学受験を終えた若者たちは、受験のプレッシャーから開放されて常に心が浮ついている。それは私の大学だけではなく、どこでもさほど変わらないのだろう。彼らは受験に打ち勝ち希望に満ち、青春に飢えている。高校生活で味わうはずだったアレコレを取り戻すのが大学生活の目的みたいなものだ。

専門的な知識を身につけるため入学した学生だが、1年は一般教養という「興味のない学問」を学ばなくてはならない。受験勉強という詰め込み型教育を受けて来た彼らにいきなりいろんな知識に触れ人間性の豊かさを育みなさい、なんて言ったところで真面目に聞くわけがない。勉強は手段であり目的ではないと教えられてきた彼らが知識が心を豊かにする事に気付くまで、もう少し人生経験を積まなければ理解できないだろう。

皮肉なことに、一般教養という名の元、気を緩ませるのは人間性を豊かにするのに一役たっている。勉学を横に置いて青春を謳歌し色んな体験やトラブルを経験させるのは講義で得る知識よりも人生の役に立つ。倫理学の講義を聞くよりアルバイトで様々な理不尽に触れたほうが倫理や道徳についてよく考えることが出来るだろう。彼らに必要なのは知識ではなく体験だ。勉強ばかりしてきた子どもたちは社会生活に初めて触れる赤ん坊と変わらない。

学生たちも本能的にそれは分かっていて、講義は単位を取るための最低限の努力しかしない。効率的な勉強をしてきたのだから手を抜く技術も既に会得している。単位が取りやすい講義を吟味し情報を収集する。そういう情報はサークルに入ればいくらでも手に入る。なので講義の人気は内容ではなく単位の取りやすさ順になる。私の担当する英語の受講者は多くも少なくもなく、と言ったところだ。既に勉強している学問だからドイツ語やラテン語よりも楽だし、かといって出席をきちんと取るのでごまかしが効かないので嫌がる学生も居た。

どんな状況でもまじめな学生は必ずいたが、壇上から遠ざかるにつれ私語が多くなる。でも私はそういう私語や内職について一々注意はしない。学生たちは心から英語を学びたくてここにいるわけではない。一時的な腰掛けの為に講義に出席し、講義の後何をするか考えるのに忙しい。真面目に聞いてくれないのは悲しいが、正直私も熱意を持って講義を行っているわけではない。彼らの熱量に合わせて私の熱量も変える。半年もすれば彼らを顔を合わせることもなくなるし、1年もすればお互いに顔すら忘れる関係だ。真面目に聞くように声を荒げても誰も得しない。質の悪い学生にあたっても半年後には綺麗に入れ替わる。その度に怒るなんて馬鹿げている

もちろん熱心に聴いてくれる学生たちには失礼の無いよう手抜きの講義は行わない。講師によっては自分の研究をべらべらと自慢話のように話し続け、学生が興味を持たなくても理解できなくても独演会に参加するだけで単位を与える者もいる。私はそんな意味のない話を聞かせて学生の時間を消費するのは理不尽だと思う。論文などの専門紙を読む状況になった時、私の講義が少しでも役にたてるよう工夫している。

ある日、私は疲れていた。小説の翻訳の期限が迫っているというのに学内の揉め事に巻き込まれ、遅々として翻訳の作業が進まなかった。講師なんて止めて自分の好きな仕事だけして食べていければ良いのになと思うが、私には講師という肩書も必要なのだ。

ベッドにぶっ倒れるイメージが頭から離れないまま講義に向かった。学生たちは相変わらずそわそわウキウキしている。微笑ましい光景でもあるが疲れている私の神経に触わった。彼らのざわめきは頭痛を増幅させる効果があった

講義の途中、ふと「時々訪れるイベントを楽しみにして生きるしかないよな」とつぶやいてしまった。気付いたら口から漏れ出ていた。講義と全く関係ない発言に前列のまじめな生徒の表情は固まっていた。そしてその不穏な空気を感じた後方の生徒たちもおしゃべりをやめ教室内は静寂に包まれた
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