とむこの悪口帳「別館」

kan

kanが死んだ。数か月前に癌で闘病というニュースを見たときに嫌な予感していたが、現実になってしまった。引っ越してから何度も何度も「良ければ一緒に」のライブを流していて子供も楽しそうに踊っていたから、とても残念に思う。とても残念だ

といっても僕は彼の熱心なファンではない。大学時の彼女がkanを好きで一緒に聴いていた程度で、良い曲というより面白い曲を書く人という、漠然とした印象の人だった。細々ながらずっと聴き続けてきたのは耳に心地よいからだろう

たまたま見つけたライブの映像は何度見ても心が和む。とても楽しそうでリラックスしていて観客ものんびりとダレて聴いている。観客の大半はkanのファンではなくミスチルが主目的なのだろう。でもミスチルのボーカルの笑顔は心から楽しんでいる笑顔なのだ。彼がkanの一番のfanなのだろう事が良く分かる。そんな映像を今年見つけて親近感が増していただけに、より残念な気持ちが強い。また自分の世界から知っている人が一人いなくなってしまった

有名で好きな人が次々に死んでいくと死への親近感が増していく。自分の死ぬ準備が少しずつ整えられていくような感じがする。そしてその感覚は決して悪いものではない

40歳を超えて聞こえてくる有名人の死は若いころには感じた事の無い喪失感を伴うようになった。20歳の時にテレサ・テンが亡くなったと聞いても、自分の青春には殆ど影響がなかったのでそれは唯の死の報告だった。2015年に水木しげるが亡くなったと聞いた時は、深い溜息が出た。彼もまた思春期には縁が無かった人ではあるが、10年以上何かの折に彼の漫画を手に取っていたので彼は僕の人生を構成している人の一人だった。そう思っている人が自分の世界から去ってしまうのは堪える。何年も会っていない親戚が亡くなった時よりも心の痛みは大きい

そうやって自分の知る人が次々に(というのも変な表現だが)亡くなっていくと、何となく最終的には自分の世界ではなくなってしまうような気がする。実際には好きなアーティストは新しく出てくるし、色んなもの物に対する好奇心も失われていないのだが、kanよりも親しみを覚えたりするかといえば全然自信はない。失われてしまったものは替えが効かない年齢になってしまったのだ
うまく説明できないのだが、自分が良く知っている有名人がいない世界なら自分もそこから死して離脱するのも良いような気がしている。繰り返し聞く訃報には勿論自分も含まれていて、その順番が着々と近づく鐘が鳴っているように感じる時もある。30代の頃生への執着心に負けて自殺できなかったのに、50近い今では死は生の対極ではなくなってしまった。

勿論子供の成長を見守りたいからまだ当分は生きていたいのだが、最近は特に死という現象を自分にも起きる事として受け入れる心境が生まれ始めている。そう思えるのは年のせいなのかある程度人生に満足できたからなのか分からない。自分が死ぬのは別に良いのだ。今はただ家族の死を恐れて生きている
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