とむこの悪口帳「別館」

ブルーシート

予約していた運動場にドクターヘリが降り立った。正確には、我々が着く前にグラウンドにドクターヘリは既に鎮座していた。10月に入ってもまだ蒸し暑く、地面の照り返しが鬱陶しい午後。空気の流れもなく、残暑が居座っていた。

付近の工事現場で事故があったらしい

仕事上の付き合いで嫌々参加している運動はキャッチボールに毛の生えた程度のもので、その辺の河原で済んでしまうレベルだ(片手で足りる程度しか参加者はいない)。だからというわけではないが予定が潰れてしまったという悔しさなど微塵もなく、このまま中止になれば良いと思いながら他にやることもないのでその成り行きを眺めていた

 子供の頃から運動は嫌いだった。苦痛でしかなかった。といいつつ、週2回スポーツジムに通っているので興味のない運動を強制させられるのが耐え難かったのであろう。 

団体競技と球技の両方に興味のない私は、あらゆるスポーツを憎みと嫌悪というフィルターを通して眺め、大人になった。そういった経験が無ければ、素直な気持ちでスポーツに接している大人になれたと思う。

社会人になったとき、自分が嫌なものをしなくても良い(というのは大きな間違いである事を後で知るが)と考えたことを覚えている。その中に「やりたくない運動」というのも含まれていのだが、よりによって社会人となり自営業者という楽な身分でありながら仕事の都合で「運動を強制される」事になるとは思ってもみなかった。

野球、というスポーツのルールは男であれば皆知っているものだろうか?「知りません」というと驚かれるが、学ばなくても自然と身につく知識だと思っていない私は逆に驚いてしまう。思い返してもどんな種目であれ、授業中にルールブックらしきものを見た記憶がない。奇妙なものだ。私のいた環境が特殊だったのだろうか

いずれにしても大人になって「やきゅう」をやらされている

打ち方はわかる。フォームを気にしなければ棒を振れば良い。投げ方もなんとかなる。ボール以外でも物を投げることはある。でもそれだけだ。興味のない運動はするのは、やはり人生の損失だと再認識した。

ドクターヘリは来ていても患者はまだ来ていないようだ。現場には緊張感がない。ドクターヘリを間近で見ることは貴重なので、我々は牧場の牛たちのようにじっとその光景を眺めていた。実際のところ他にやることもない。蒸し暑い平日の午後にいい大人たちがぼーっとしているのは救急隊員からすれば
奇妙に見えたかもしれない。時々遠慮のない視線がこちらに向けられる。しかし、本来そこにいるべきなのは我々なのだ。少ないながらお金も払っている。それくらいは許してほしい。年長者が「中止」と言うまでは帰れない。

 ほどなく救急車と随伴の消防車が到着し、一時現場は慌ただしくなる。ドクターヘリが必要な状況だ。一刻も早く病院に搬送するのだろう。が、動きはない。何処かへ連絡したり、ヘリの周りに水をまいたりなんとなくのんびりした光景が続く。15分ほど経ったであろうか、「もう帰りたあぁぁい」と心の叫びが実際に声に出そうになったその時、救急車からドクターヘリへの移送が始まった。

なんと消防団員と思しき人達が大人数でブルーシートを使い目隠しを始めたのだ。我々と消防車との距離は50mはあるだろうか。他に人気はない。であれば、そのブルーシートは我々への対策なのであろう。4~5人のSNSのSも知らない棒立ちしたおっさんにも警戒しなければいけない時代というのは難儀なものである

そして私はやきうがやりたくないため同業者の集まりである〇〇会を辞めた。




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